天気の子見てきた

 天気の子を見てきてほんまにええ映画で、考えさせられることがあったから久しぶりにブログ書く。

 

 ストーリー全体を通して自分なりに受け取ったメッセージは、自分と他者は目に入るものは同じかもしれないが、それぞれ見ているものや感じることは全く異なる(つまり自分の人生を生きろ)ということ。これだけ読めば超今更で激当たり前のことのように思われるかもしれない。まあ、その通りといえばその通りなのだが、今更で当たり前のことって世の中の本質を突いていて、中々奥が深く、本当の意味で理解するにはたくさんの体験や客観的な情報を持ってして思考を巡らせる必要があるものが多いと思う。

 天気の子はその題名の通り”天気”を題材にしており、晴れ女で天気をコントロールできるヒロイン&そのヒロインがスコな主人公と、それ以外のなにも知らないモブの抱く、天気に対する感情のギャップこそがこの映画のミソだと自分は思った。それにより分かりやすく、現象と各々の人の感情の関係が表現されていた。人は現象をみて感情を揺らし、また、揺れた自分の感情を燃料に行動し現象を引き起こす。しかし、社会ではたくさんの人々がそれぞれの感情を持ってそれぞれ行動を起こす。だから当然現象が自分の思った通りになるとは限らない。これも当たり前のことだが人は弱いもので、度々この社会構造を無視し身勝手なことを思う。

 自分の行動に沿った現象が起こればラッキーと思い、自分が起こしたことなのだからと責任を感じる。自分の行動に反したことが起こるとなぜ自分がこんな目に合わないといけないのだと憤りを感じ、誰かにその現象の責任を取らせようとする。自分が警察に追われ消えそうなヒロインを前に主人公が「自分たちは普通に生活したいだけなのに、みんなほっといてくれよ」と嘆くシーンや、ヒロインを助け東京に雨降らせ続けることを選んだ主人公がそのことに責任を感じているシーン、そしてそんな主人公に対して「調子にのるな」とおじさんが一蹴するシーンなどは、余日にそのことを表現しているなと思った。

 人生って、心の底からやりたいことや、実現したいこと守りたいものができたときたときようやくスタートラインに立てて、そこから歩みを進めていく中で色んな人の思いが蠢く社会でそれを実現することの難しさを痛感し、自分の思いと大変な努力をコンパリしながら、生活を営んでいく。そんなもんなんじゃないかな、なんて最近考えている。

 かなり飛躍してしまったかもしれないが、天気の子をみて思ったのはそんな感じのこと。